大河ドラマ「捏造史観浸透の具」考
2012/01/09(月) 19:47:47 [ドットCOM殿式]
大河ドラマも「捏造史観」浸透の具に
「亜」が作ったものとしか思えません(読者)
読者から頂戴する投稿につき、秀逸なるご指摘、問いかけについては、あるいは、全文を紹介させていただく方が、みなさまにお読みいただきやすいものと考え、ドットCOM殿の手法を小ブログも一部見習わせていただき、新たに「ドットCOM殿式」のカテゴリーを設け、小ブログに紹介させていただくこととしました。読み難い点が有りましたら、アドバイスをお願いしたく。博士の独り言/写真は「路傍にて」(筆者)
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巧みな対日毀損の具となりさがった「大河ドラマ」
【読者より】 昨今のNHKの大河ドラマは必要以上に公家や武家や庶民のいでたちを不潔かつ汚く描写して不愉快です。朝鮮・支那人が作ったものとしか思えません。昨日の平清盛もそうです。まるでアンダーウッド『まげの国の一五年』(1904年)で『朝鮮の宿屋は不潔さ、狭さ、悪臭と不快さにおいて、中国内陸部の宿屋に次ぐものである。扉を覆う紙は一様に汚れで黒ずんでおり、光線がほとんど差し込まないため、部屋は陰鬱な感じがする。』と酷評された20世紀初頭の朝鮮の家屋の描写のイメージで建物のセットが組まれているとしか思えない程に感じが悪かったですね。
漁村の風景もハミルトン著の『朝鮮』(1904年)で『漁村の貧困ときたならしさは、驚くほどである。人々は精神がなく、寝て伸びをして食べてを繰り返す怠惰でだらしない存在でいることに満足しているように見える。金を出すと言っても、日中釣り舟を出させるのは不可能だった。』と記述された20世紀初頭の朝鮮の漁村の光景をそのまま再現しただけのように見えます。
日本は公家や武家は毎日ではないですが、冷水浴=宗教的行事、蒸気浴=身を清潔にする、温水浴=保養・休養と事ある毎に風呂に入っていました。 庶民ですら気軽に寺院の浴堂へ行き施浴(入浴)を施して貰ってましたし、平安時代末には京都で初めて 「石風呂(今でいうサウナ)」を用いた湯屋(銭湯)が存在していました。『中右記』(1192年(大治4年))にも書かれているほどです。
ですから、平安時代の日本人が20世紀初頭の朝鮮のように全く風呂に入らず、汚れや垢まみれになる事はあり得ません。 大河ドラマも南朝鮮・支那による捏造史観浸透の為の策動の一環としての道具に成り下がったと思います。 (以上、読者によるご指摘)
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貴重なご指摘に感謝
【博士の独り言より】 メディアの動向を観る上で、大変に貴重なご指摘をいただき感謝します。数千万世帯にもおよぶとされる、視聴者の衆目が集まりやすい「大河ドラマ」は、淡々と観ても、やはり捏造史観の植え付けにもって来いのツールではないか。それも「亜」自らの病理を日本の史実に転嫁し、日本がもともと酷い国であったかの植え付けをなすためのものでになり下がっているのではないか、との感慨を筆者も否めません。
その“方向性”のゆえか、出演者の中にも、いわゆる、カルトタレント、帰化系タレントと指摘される面々によって要所が構成され、一種の常連化しているかの傾向が観られるのではないかと思います。そもそもの脚本にさえ疑問を抱かざるを得ないケースがまま有り、撮影のためのセットの設定や演出、BGMまでに「変だなあ」との違和感を抱かざるを得ないケースが増えているかに窺えます。テレビを観ない筆者にさえこう映るわけですから、心ある視聴者にとっての違和感は、さぞ、その比ではないのではないか、と拝察する次第です。
みなさまからいただく多くのご指摘を拝読してまいりましたが、たとえば、近年では、「愛」を掲げる「直江兼続の生涯を描く」とした「天地人」(平成21年)のストーリーやキャラクタ付けが、そのはるか以前にヒットしていたコミック「花の慶次」(「少年ジャンプ」に1990年13号から1993年33号に渡って連載。さらに1999年に文庫版(全10巻)。2004年から2005年にかけて完全版(全15巻)発売)、ならびに「義風堂々 直江兼続 -前田慶次月語り-」(『週刊コミックバンチ』(新潮社)で、2008年50号から2010年38号まで連載)(以上の掲載、発売情報はWikipediaより)、およびそれをもとにした賭博機(パチンコ)「花の慶次」(2007年7月発売)と実によく似通っている、とのご指摘がありました。
大河ドラマを、つい真に受けてしまいがちな人々が視聴者層に少なからず存在しておられるでしょう。いわゆる“活字離れ”が進むほどに、そうした方々にとっては、たとえば、無茶苦茶な格好をして横暴に振舞う伊達政宗公が画面に登場すれば、オンエアの垂れ流しが、そのままその視聴者にとって“史実”になってしまうケースもあろうかと思います。まして、国外の視聴者にとっては日本の史実への誤解を誘発しかねません。むしろ、それが「狙い」の一つではないか、と洞察しています。一つ間違えば、というよりすでにそれ以上間違っているのかもしれませんが、せっかくの大河ドラマのフレームが、それだけでも、受信料を支払うには勿体ない、との声さえそぞろに聞こえて来る惨状を呈していることは事実でしょう。
内容の検証をさて置くかのように、たとえば、大河ドラマであつかってもらったから観光客が増える、名産品が売れる等の、「亜」の商売人のようなメンタリティのレベルで判じるべきではない、メディアの病理の一つに違いありません。
筆者の眼には、「篤姫」(平成20年)の内容、脚色も実に酷く映りました。多くの史実が抜け落ちており、内容がスカスカでした。多くの誤解を招いたことでしょう。ドラマが大ヒットしたのは、史実の天璋院篤姫が立派な生涯を送ったためであり、番組や制作関係者によるものでは有りません。史実に堂々と名を遺した他の先人方々についてもまた同様です。その、あたかも、ダイヤモンドを綺麗なガラス玉に“讃える”かの貶めの手法も、実は巧みな史実毀損に用いられていることにあらためて気づいた一作でした。当該局に訂正を求める問いかけをしましたが、“蛙の面に小便”でした。これについては、詳しく指摘させていただく機会を、後稿の場に得ることが出来ればと思います。
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▼ 最近のメモ (7稿):
・朝鮮人「DV事件を占める」 (01/09)
・味噌と野菜汁にて (01/09)
・慶祝・成人の日 (01/09)
・日本大使館「放火男」考 (01/08)
・韓国「売春立国の憂鬱」 重稿 (01/08)
・誤記のお詫び (01/08)
・敷島ってどこ? (01/08)
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読者のみなさまにはお忙しい中、ご訪問をいただき感謝します。新たな記事をアップさせていただけたことを有難く思います。 一日一日を大切に、みなさまと共に考え、真実を共有できればと願っています。事実を指摘する批判は「悪口」ではなく、真実を掘り出し、その共有のために不可欠です。また、真実の共有はすべての第一歩です。正論は真実から生まれ、良識の声は必ず力になる。応援くださるみなさまに心より感謝します。
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日本は毅然とあれ!
路傍にて(筆者)
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