2011/11/06(日) 02:14:59 [「博士の独り言」復刻記事]

20101230077



平成19年3月20日付メモより復刻
“植民地時代”の大嘘を撤回すべし!

20070205003
保存か撤去か…木浦に残る日本統治期の建築物(上) 
   日本統治期の代表的近代都市として成長した全羅南道木浦には、当時の雰囲気を今にとどめる近代建築が数多く残っている。しかし、これを積極的に保存・活用すべきか、撤去すべきかをめぐり、地域の世論が二つに分かれ、最近では「近代文化遺産を積極的に活用した街づくりをすべきだ」という声が少しずつ高まっている。全羅南道木浦市の中心街・務安洞2街の奥に建つ中央教会礼拝堂。この建物は1930年代初めのもので、当初は日本人たちが通う東本願寺木浦別院として使われていた。長方形の石造平屋建で、典型的な日本建築の様式にのっとっている。この建物を中央教会が57年に買い入れた後、現在まで礼拝堂として使われてきた。計画通りならば、この建物は今年上半期中に撤去される。朝鮮日報 2007年2月4日付記事より参照のため引用
----------

韓国に提供された建物、施設

 小記事について、英版資料とともに、ホームページから配布する予定である。先稿として掲載の小記事を、資料原版とした。読者の何らかのご参考としてお役立ていただける機会があれば幸いである。

 さて、撤去か、保存かの論議が韓国の各地で起こっているようだ。この「全羅南道木浦」に関する記事もその1つだ。堂々とした建築物である。70年、80年を経てもなお施設として価値を持つ建築物が多い。その証左である。さしたる空襲も受けずに残った「日韓併合」時代に建てられた日本の建造物は、日本の「一地方」となった韓国住民が、日本から手厚く保護された。その事実を物語っている。

  同記事の「下」には、「日本統治期の建築物は都市開発とともに消え、撤去と保存をめぐる対立と摩擦が続いている。例えば、1921年に建てられた東洋拓殖会社木浦支店の建物は「廃墟」のまま放置されていたため、市がいったんは撤去の方針を決めたが、市民社会団体らの保存運動によって何とか撤去を免れた。それが1999年のことであり、現在は近代歴史文化館として活用されている」と。

20070205004
日本の建造物(朝鮮日報の同記事(下)より)
----------

 また、「しかし、1935年に建てられた竹洞教会は撤去の悲運をたどった。木浦市が消防道路建設のため撤去しようとしたところ、保存を求める世論の声が上がったが、2004年に起きた原因不明の出火により結局撤去されてしまった。また同年には、1920年代の建物である東拓官舎(測候洞)も市によって撤去された」と「日韓併合」時代の建物が多数残っていた様子を報じている。
----------

朝鮮半島の近代化に付与した日本

 韓国の反日宣伝にある「植民地支配」「侵略」は事実ではない。現在の朝鮮半島が「大韓帝国」であった時代に「日韓併合」はあった。1910年8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて日本が大韓帝国を併合し、朝鮮は正式に「日本国朝鮮地方」となったのである。日本の「一地方」ゆえに、日本政府は莫大な予算を投入し、農奴と乞食が大多数を占めていた朝鮮の近代化に付与したのである。

20070112003
明治43年(1910年)「日韓併合」を伝える紙面
----------

 この「日本国朝鮮地方」には、5000校を超える学校をはじめ、必要な各種設備、医療設備、道路他の多数のインフラを構築したのである。昭和40年(1965年)の「日韓間相互の請求権の破棄」の取り決めにおいて、「両締約国(日韓双方)は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」、とする戦後の「日韓基本条約」を締結。


 「謝罪」「賠償」する筋合いは全くないのである。まして、同条約の締結に際し、日本国の好意から、この日本統治時代に建設し、空襲も受けずに残ったインフラを代償を求めずに提供している。時価に換算(試算)して16兆円ともいわれる。
----------

「日本」に多大な「借り」がある韓国!

 韓国に対して多大な「貸し」はあるが、「借り」は一切無い。それが韓国における日本統治の歴史である。両国同意の上で条約まで締結した上での政策であり、朝鮮人が自分たちで選んだ道であった。

 当時は、国力の上からも、半島独自には存続し得ない状況にあり、近隣国との併合が残された選択肢であった。もし、韓国が併合の相手に清国を選んでいれば、清がその後に滅んだ経過から、半島に大きな混乱が起きていたであろう。ロシアを相手に選んでいれば、ロシアの帝政もその後倒れた経過から、半島全体が共産主義国家になっていたであろう。否、清を選んでいた場合も、結果的にはロシアの場合と同じであったのかもしれない。

 言い換えれば、日本にとって、膨大な労力と費用を投じるのみで何のメリットも無く、「支那、ロシアから隣国の韓国を保護する」以外に目的はなかった。その当時を“植民地統治”と韓国は主張しているが、仮に、百歩千歩譲って「植民地統治」であったとしても、さしたる天然資源も無く、農奴と野盗が大半を占め世界一の極貧国であった「半島」のこと。そこから搾取するものは、全く「何も無かった」のである。

 「日韓併合条約」のもとに、こうした資金や資材などの「物的支援」に終わらず、「人的支援」「技術支援」も同時に行った時期が「日韓併合」時代である。韓国にもたらされた多大な近代化ともに、近代教育の中でハングルを必修と定め、文字を用いる文化を提供。人は国家の基本として重視し、医療と衛生環境を飛躍的に向上させ、半島の人々の平均寿命の伸長に貢献したのである。

 この日本は献身的な努力と貢献により、また、戦後にも提供した多大な支援により、朝鮮半島には“奇跡”と呼ばれるほどの発展をもたらされたのである。自己都合の反日宣伝のために、真実の「歴史」を塗り替えんとする韓国こそ、「歴史問題」を深く問われるべきである。「恩義を仇で返す」。その国民性は、同国の反日プロパガンダを打ち破る上で明確に認識しなければならない病巣だ。真実の「歴史」とともに世界に伝え行かねばならない。
----------

 以上、平成19年3月20日付メモより復刻
----------

■ 関連記事と資料:

平成23年5月4日 見抜くべき「亜」の国害
平成23年4月23日 (第一部)
日本の新たな夜明け

-------
□ 平成22年11月21日 訪問勉強会 特亜および露西亜の真実
----------

意見資料: 
平成23年6月29日加筆 強制連行を「事実」だと誤解していませんか?
平成23年6月27日加筆 区別を「差別」だと誤解してはいませんか? 
----------

■ 参考記事: 「強制連行」の虚構
---------- 

【筆者追記】       

貴重な自身の「メモ」の存在

 電池が残り少なくなりました。本記事は足かけ5年前の小さな消失メモですが、復刻記事として掲載させていただきます。余談ながら、消失したメモを数えれば六百数十編におよびます。これまでに復刻したメモが七十余編ですから、未だ五百六十編ほどがブログから消失したまま、との計算になります。専門外のメモゆえに、殊更、後に判りやすいように、一つ一つを極力、単一テーマのもとにまとめ、且つ重要なキーワードを含めつつ簡潔に記すよう心がけてまいりました。その後の意見書や書簡活動に添付する資料作成、あるいは、国思う勉強会の資料作りに際しての関連メモとして役立てております。


 メモそのものは、拙き少年時代から続けています。他分野(動植物や自然科学、馬術など)、他、その後の専門分野のメモは、日記の形式で、こちらは誰に見せるわけでもなく、日記の中に、その時に考えたこと、学んだことなど、自由に記すようにしています。あらゆる記「録」を合わせると大学ノートにして計百七冊におよび、現在は百八冊目を綴(つづ)っています。
瑣末な学生時代、および第二次学生時代には、忘れかけていた少年時代の発想、志や少年の目で観察した自然界の様子など、客観的に振り返ることが出来、自らの記「録」に目を通すほどに、論文執筆や研究講演などに大変に役立ちました。今後にしてもまた同様と思います。出会った医学賞、化学賞、物理学賞受賞者の学匠の中にも同じようにメモを記し続けておられる方が少なくなかった。それに気づいたのもその頃です。稚末な身ながら、ブレない論旨を志す原点がここにあります。

 あの時、その日、こう思った、そのように考えた。この点に気づいた。こう反省した。それを学んだ等々。それらの事柄一つ一つを書き記しておくと良い。その意味からも、青少年講座など、若い層のみなさまには、将来のために、形式にこだわらず、また、誰に見せるつもりでもなく、とにかく、自由に日記を綴り残すこと、そして、続けることをお勧めしています。
----------

日本は毅然とあれ! 
            

20110407001        
敷島の桜花(筆者)
----------

人気ブログランキング 

↓「亜」の虚構宣伝を摧破し、日本を護ろう!
20100310008 

Comment

Post Comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

トラックバックURLはこちら