2011/09/14(水) 08:01:30 [「博士の独り言」記事より]

20101230077 



平成23年9月5日付「博士の独り言」メモより再掲
迷い子猫との出会い 

 私事で恐縮です。八年前に、縁あっての法事があり、参列するために地方の寺院に出かけた時のことでした。境内で法事の開始を待つ人々の間を縫うように、鳴きながら歩く子猫がいました。おそらく迷い猫で、生後三週間くらいでしょうか。とても小さな子猫でした。

 子猫に周囲の人々の視線が集まり、おやまあ、可哀想に、と。こうした声がそぞろに上がっていました。そこへ寺の小僧さんが駆け寄って来て、「気にしないでください。すぐに処分しますから」、とこういうことを仰(おっしゃ)った。私は動物好きなものですから、「ちょっと待ってください」と。反射的に、その小僧さんに申し上げた。「たとえ畜生であっても、殺生を好まないはずの仏教のお寺で、処分しますからとは何事でしょうか」とその場で申し上げ、鞄から一筆箋を執り出して同趣旨の内容を書き、その小僧さんに、「これをご住職に渡してください。反論があればこの私が引き受ける」、と手渡しました。これも意見書の1 つだったのかもしれません。

 法事が終わり、そこのご住職から、「仰(おっしゃ)る通りです。小僧が失礼で申し訳ないことをしました」とのメッセージをいただいた。果たして、その約八ヶ月後、別のご縁の法事に参列するため、たまたま同寺を訪れる機会がありました。季節は六月。丁度、紫陽花(あじさい)が見頃の季節でした。

 随行した弟とともに寺の参道を歩いていると、満開の紫陽花の植え込みの間から一匹の猫が姿を表し、立ち止まった私の足元を八の字を描くように身をすり寄せて、私の顔を見上げては「にゃー」と言い、話しかけるようにして、また、足元に身をすり寄せて来ました。気のせいかもしれませんが、通常、無表情に見える猫の顔が嬉しそうに映った。そう見えた瞬間に、八ヶ月前の、あの時の猫であることに気づきました。大きくなって、首には赤いリボンが着けられていました。「そうか、この寺で養ってもらっているんだね。よかったね」と。かかんで頭を撫でているうちに、私も嬉しくなりました。

 思えばこのことは不可思議で、何でこの私に、との思いが残りました。その様子を唖然と観ていた弟に事情を話すと、「あの猫がお礼を言いに来たんだよ、きっとそうだ」と言う。まさか、とは思いますが、そう考えれば、「そうなのかな」とも思える出来事でした。その時の光景と、猫の表情を今も忘れることが出来ません。

平成22年8月7日 「猫の会」第2会総会より 【PDF資料
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 以上、平成23年9月5日付「博士の独り言」メモより再掲
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【筆者追記】

再掲にて失礼

 ごく一時的な症状かと思いますが、見えていた片目も視力が落ちているため、事情により、復刻記事と併せてのメモの再掲をさせていただきました。 なお、今夏、上記の寺へ盂の法要で出かけたという知人より昨日電話があり、たまたま猫の話題になったところ、上記の猫は参道をいく人々から「シロちゃん」と親しまれ、元気に暮らしている様子だった、とのことでした。大変に嬉しく思いました。
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路傍にて
筆者)
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気のせいじゃなく、お礼に来たんですよ。間違いなく。

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