2014/12/04(木) 09:01:31 [ドットCOM殿式]

20121210008   
もう、お休みされた方が良いのでは?

 【メッセージ】 博士のブログの読者です。「蒼蠅驥尾に付して千里を致す」という喩えを用いられましたが、ネットでは「つまらない者でもすぐれた人について事を行えば功名をなしとげることができる」という意味が表示されていました。博士はちょっとたとえ方が間違っていませんか? 秀逸な記事を沢山アップさせているだけに残念です。困窮されているせいでしょうか? もう、そろそろお休みされた方が良いのでは?

(以上、いただいたメッセージ(4日)より)
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▼ メッセージの対象稿

祝「はやぶさ2」打ち上げ成功
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力の比較の意味での記述

 貴重なメッセージをいただき感謝します。意味の方ですが、「蒼蠅」(あおばえ)」は自力では千里を行くことは困難であるけれども、「驥尾」(馬の尻尾)につかまっていればそれも可能になる(要旨)、との喩(たとえ)で記したつもりです。(*)印で注釈を記しておけば良かったのですが、敷島人流の咀嚼を付記すべきをつい省略してしまいました。栄養不足で手があまり動かなくなって来たためかもしれません。ご心配をおかけしたようですね、お詫びします。

 出典の古代支那の「伯夷伝」では、ご指摘の解釈が成り立つ意味で記されているのかも知れませんが、事象の中の強弱、規模の大小の相対の上から述べたもので、我が国の将来の探査機を蠅に喩えて毀損するものでは決してない。

 いかに優れた技術の進歩を重ねて行くとしても、たとえ無人探査機で有っても、しかし、太陽系の外縁(たとえば、オールトの雲と呼ばれる領域)までのポジティブな観測のための自力航行は当面困難であろう。それならば無人探査機をユニット化して回帰型の彗星に取りつけて、長大な楕円軌道を描く彗星と共に太陽の外縁まで、且つ、外縁から太陽への最接近までを観測し続けるという新たなコンセプトも、日本発で有っても良いのはないか、との要旨です。
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中、高校生時代のノートから

 瑣末な身は、数学とその関係(物理学など)だけは小さい頃から得意でした。高校に上がる頃には、独学で大学院の数学の領域をあれこれ理解していたという思い出があります。

 そのような次第で、数学の時間は教科書を机に立てた裏でこっそりと「読書の時間」にしていました。隣で「早弁」していたクラスメートもいましたが、私は読書に充てていました。最も読んだのが漱石でした。「吾輩は猫である」は何度も読みました。

 その漱石の知友で「吾輩は猫である」の中にも登場する寺田寅彦の文選集や、他、志賀直哉、芥川龍之介の作品をはじめ、支那の史記の解説書や三国志演義なども読んでは、興味深い箇所、文言をノートに書き留めるという“自習”を重ねていました。上記もその一つです。まあ、日本人ならこう前向きに解釈するだろうと。当時のノートにそう記しています。高校一年時の11月7日のことでした。
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日本人の咀嚼、集成の力もまた「底力」の一つ

 武士道や茶道、華道など、外来の文化を取り込みながらも、しかし日本では「道(どう)」へと集成した。むしろ独自の文化となして来た。それが敷島人の咀嚼の力です。たとえば、数字やローマ字、漢字などは外来だから使うなと、いう趣旨ではなくそれがたとえば「はやぶさ」を生み出し、あるいは幾多のノーベル賞級の基礎研究と無比の成果を生み出して行く、とすればそういう論旨も通用しなくなります。

 日本人の咀嚼、集成力もまた「底力」の一つなんですね。かつて「西欧列強」が驚愕した日本の発展もこの底力によるものであることは云うまでもありません。

 なお、今後、引用には注意します。あれこれ余計なことを記してしまいました。また次の更新でお会いしましょう。
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▼ 週中の小稿

祝「はやぶさ2」打ち上げ成功
中韓「民主党の時代は良かった」
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国体の護持と弥栄を!     

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敷島の路傍にて(壁紙)(平成26年)義広撮影 敷島について
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