2013/01/07(月) 08:35:00 [明るいニュース]

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「余は幸いにして日本人に生まれた」

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吾輩の全集未収録の随筆である
 文豪、夏目漱石(1867~1916年、写真)が新聞に寄せた全集未収録の随筆が見つかったことが6日、分かった。初代韓国統監を務めた伊藤博文の暗殺などに触れた内容で、研究者は「初めて見る貴重な資料だ」と評価している。作家の黒川創(そう)さん(51)が国立国会図書館などから発掘した。7日発売の文芸誌「新潮」2月号に、随筆の執筆背景などを盛り込んだ黒川さんの小説「暗殺者たち」の一部として全文掲載される。以上、冒頭より/産経新聞 平成25年1月7日朝刊 記事(切り抜き)紙面(3面)より資料として参照のため引用
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発掘の背景

 作家の黒川氏が夏目漱石の全集未収録の随筆を「発掘」。この“ニュース”について、朝刊各紙(7日)が報じているようだ。さて、たとえば「発掘」とあればその経緯をどう報じているか。その記述を観る。そこに新聞のクオリティを比較できるポイントがある。その点で、あるいは、表題の事例に限ったことなのかもしれないが、表題に参照する紙面(産経新聞)が最も細かに記しているので小稿にクリップさせていただきたい。

 「発掘」の経緯については、「作家の黒川創(そう)さん(51)が韓国で見つけた」とだけ記す紙面もあった。

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讀賣新聞 平成25年1月7日朝刊 紙面(切り抜き)38面より
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 だが、産経紙面は、先ず「黒川さんは平成22年、韓国開催のシンポジウムに参加した際、伊藤を暗殺した安重根に関する現地の資料集に随筆の一部が収録されているのを発見」として、その後に、「国立国会図書館所蔵の満州日日新聞のマイクロフィルムで全体を確認した」と紹介している。「韓国で見つけた」としたさしもの大新聞らしからぬ紙面よりは、韓国で「随筆の一部」を発見し、その全体を国立国会図書館のマイクロイルムで確認した(要旨)とする産経紙面の方が親切である。表題に掲載の当時(明治42年11月5日)の記事もその国会図書館所蔵からの写しであろうことも容易に判る。情報のクオリティの「差」を拝考せざるを得ないのである。
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実際に見聞しての随筆

 もう一つ有ってよい視点は、夏目漱石伯(筆者はそう呼ぶ)が、伊藤博文公が朝鮮人に暗殺された事件への感慨を、想像ではなく、実際に後に事件が起こった「現地」を訪れて感想をもとに記されている点である。

 現在の満年齢の齢の数え方からすれば、漱石伯は当時42歳であり、文豪の才ある人にとっては未だ「青年期」の多感な時期に該当するものと拝察する。その漱石伯が同年の秋9月に現地を訪れた。その感慨をもとに「満韓を経過して第一に得た楽天観は在外の日本人がみな元気よく働いてゐると云う事であった」と記し始め、事件について「公の狙撃(10月)されたと云うプラットホームは、現に一ヶ月前に余の靴の裏を押し付けた所だから、稀有(けう)の兇変(きょうへん)という事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」との記述をなされた。
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「余は支那人や朝鮮人に生まれなくつて、まあ善かった」

 つまり、活気と安寧が直に感じ取れた現地で、まさか「暗殺」という兇変が起こるとは思ってみなかったことである、との漱石伯の体感を文面の奥に読み取れる。さらに、「歴訪の際もう一つ感じた事は、余は幸いにして日本人に生まれたと云う自覚を得た事である」として、道や鉄道を敷くなど「文明事業の各方面に活躍して大いなる優越者となってゐる状態を目撃して、日本人も甚(はなは)だ頼母(たのも)しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた」と。現地での在外日本人の活躍を賞賛している。漱石伯がここに記されている「優越者」とは、今日一部で悪義を込めて使われている他を一方的に蔑む意味でのものではなく、指導的役割をも兼ね持ち得る優秀な貢献者との意味を内包する言句である。

 その日本人の生き生きとした姿を目の当たりにし、そして「同時に、余は支那人や朝鮮人に生まれなくつて、まあ善かったと思った」と綴っておられる。以上は、あくまでも「余の如き政治上の門外漢は遺憾ながら其辺の消息を報道する資格がない」と念置きしながらも、しかし、満韓を実際に訪れた率直な感想に照らして、暗殺事件への感嘆を記されている。こう拝察できる貴重な随筆ではないか。幾多の先人、ならびに漱石伯に敬意を捧げ、ここに簡略ながらメモさせていただきたい。
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【筆者記】

 瑣末な身の財産の一つは、郷里の気風にもとづいて「長所を存分に伸し」「短所を補って余りある人なれ」と。得手とする科目を伸び伸びと勉強させていただいた思い出である。理科、美術を除けば、他の科目は大した成績ではなかった。特に「音楽」には地獄にいるかの思いがしたが、興味を持った算数から入り、知らぬ間に数学を得手としていた小学校高学年の頃には微分積分を自ずから理解していた。中学に上がった頃は、兄から譲り受けた学部教養過程の本を独学して微分方程式を解けるようになっていた。そのような次第で、数学の時間は、夏目漱石白や寺田寅彦博士の随筆、李登輝氏の著作や万葉集などを教科書の裏に隠してこっそりと読むのが“日課”の一つであった。

 「おい、この問題を解いてみろ」と。数学の授業で教師から名指しされ、うっかりして、未だ習ってないはずの微分形の数式をボードに書き連ねて「解いて」しまったことがあった。授業後、昼休みになるところで教師から職員室に呼ばれた。叱れれるものと覚悟したが、「驚いたが、あの解き方は非常に分かりやすくて良かった。この紙に書いてもう一度教えてくれないか」との言葉であった。
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日本は毅然とあれ!   

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路傍にて(筆者)
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