2011/05/02(月) 19:07:40 [国思う勉強会/国守る勉強会]

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国思う勉強会(平成23年4月23日)より

 民主党政権下で、「個」に対する言論封鎖が合法的、且つ本格的に行われる。その警告の声が瑣末な身にも集まる今日この頃となりました。メールマガジンが削除され、次いで「菅フ談話」と「日韓図書協定」の矛盾を指摘する動画が削除されました。ブログには削除依頼が断続的に増えつつあり、「博士の独り言」へのツイッターのリンクまでが遮断された、との報も先ほどいただきました。

 しかし、虚構と出鱈目、権力の乱用でしか成り立たない勢力が、この「個」に対して如何様に襲いかかって来ようとも、奢れる者久しからず。断固として私は前へ進みます。

 多くの方のお目に留まるように、「博士フォーラム」へも講義録を集めておいたらどうか、とのご提案を読者からいただき、通常の記事とともに蓄積させていただきます。以下の小講もその一つとさせていただきます。
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日本の夜明け

 小講では、今後の政権に問うべき国家の針路と綱格について、在るべき枢要を問いかけ、良識のみなさまに提案させていただきます。

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勉強会にて(有志撮影)
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はじめに‐国益と国害について

 先ず、国益とは何か。これまでの勉強会、ブログを通じて重ねて申し述べてまいりました。ここでおさらいをさせていただきますと、国益とは、国民の安全と生命と財産を守り、尊厳を守ることを基軸とした内政外交の上で成り立つ国家の糧を謂います。
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国益は「短」「中」「長」期の上に成り立つ

 国益は「短」「中」「長」の時間(期間)的な視点をもとにした展望、政策履行の上に成り立ち、いずれもが均整のとれた関連付けの上になされ、くまなく連動してはじめて「国益」となります。これらを弁(わきま)えず、度外視するかの施策は、むしろ国家に害をおよぼしかねません。

 たとえば、短期における国家予算の余剰を見出すかの「仕分け」はごく通常にあって然るべき視点かと拝察します。しかし、たとえば、「はやぶさ」プロジェクトをはじめ科学技術の項目に対する「仕分け」に指摘し得るように、この作業にも、本来、中長期にわたって国家の糧へと成長しゆく項目を視座に入れるべき筋道にあります。

 直ちに国家の利益に通じないとして削り取るかの「仕分け」があるとすれば、むしろ国害の要因になりかねません。中長期を展望に入れるべき諸策には冗長性が不可欠です。たとえ、短期的には余剰に映りがちな事柄であったとしても、中長期的にはその数倍、数十倍、乃至それ以上の糧を国家にもたらす項目であれば、それを判ずる先見的な視点と育成に資するべき包括性、弾力性が政治に有らねばなりません。

 また、国家を支える基本的な糧は実体経済に因らねばなりません。実体経済は国家の糧の根幹にあります。実体経済を目先の「コスト」の犠牲とするかの依存輸入の拡大や、関わる国内産業の縮退は、中長期的には、いわゆる「コスト競争」の渦に国家を投げ入れる結末を生みかねません。

 たとえば、「コスト」を念頭とするかの生産設備の海外移転や合弁会社などの設立、資本投下が、相手国によっては甚(はなは)だしい技術の流出と盗用を許す要因となりかねません。たとえば、液晶画面や半導体メモリ、複合半導体、先進素材から現下のハイブリッドカーや携帯電話など、そもそもが日本の研究開発によって実用面で実を結んだ諸技術が、あたかも。コストと引き換えにするかのように安直なまでに提供されて来ました。

 国家を潤(うるお)すはずの諸技術が、何時の間にか中華人民共和国や大韓民国など特殊な国々の糧となり、その末、日本国内での倒産や失業者増大など、実体経済の縮退をそぞろに現出している実態もまた、本来あるべき「短」「中」「長」期を総合した「国益」の視点から問い直し、洗い直し、修正すべき道筋にあります。

 国は無数の家族が形成する大きな家です。さればこそ「国家」と謂います。そもそも、誰のために守り保ち、誰へと引き継ぐべき「大きな家」なのか。外国に引き継いでもらうべき「大きな家」ではないはずです。

 子々孫々末代まで、千代に八千代に引き継ぐべき「大きな家」であり、その大前提のもとに、中長期的な「国益」の維持発展に資する個々の政策と十年、三十年、五十年、百年の将来を視野に入れた大計は不可欠です。
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憲法改正と自主憲法制定

 地上の主権国は、それぞれ相応に、国々個々の草稿による自主憲法を有しています。主権外にある、すなわち他国草稿による憲法を翻訳して用いているのは日本のみです。独立国家として、ただし、国家の明確な針路のもとに粛々と見直すべき点がここにあります。

 現下の憲法の改正への道筋を先ず踏むべき、または、主権国家として直ちに自主憲法を制定すべき、との議論がそれぞれに存在しています。その一方で、九条をもとに改憲、自主憲法の制定のいずれにも反対、との「護憲」の世論も根強く存在しています。

 しかし、九条をもとにする不戦のみを強調する「平和論」によって、この地上において戦争を経験しなかった国は皆無に等しく、且つ、紛争と戦争の絶え間ない国際情勢の現実。さらには、特殊な国々による軍事的脅威と、肝心な国家の防衛に資する議論が阻害されるかのように、国会では、実質的に改憲の是否にすら議論が資されていません。

 「平和」は呪文ではありません。平和、平和と唱えていれば、「平和」が転がり込んで来るものでは決してありません。平和とは、戦争や侵略、紛争が絶えない国際情勢の現実の中にあって、国家の命題として勝ち取るものであり、いずこの国においてもそのために軍隊を置き、平和のための代償を不可欠としています。

 日本は主権国家である点からすべての論議を出発すべきであり、国護るために必要な憲法の改定、ひいては自主憲法の制定はごく必然の理であり、その議論にすら着手され得ていない政治の現状を憂わすにおれません。

 日本は、あくまで戦敗国の立場としての謝罪、賠償はすでに終えています。まして、犠牲者が八十万人以上とされる無惨な民間空襲、原爆投下をなした側からは確たる謝罪すら受けていない状況下において、「終戦記念日」(メディアはこう呼ぶ)を迎える度に、一定の国々へ向けた反省、謝罪の弁を重ねる筋道には最早ありません。

 願わくば、この日本は日本が確として護る。独立国家としての、このごく当然の精神と認識へ毅然として立ち還るべきであり、受身の平和ではなく、平和を勝ち取るべく針路が国家の要諦に不可欠です。
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防衛と安全保障

 私たちが日常生活を営む家では、一般に、防犯や戸締りが不可欠です。国家という大きな家にもまた同様に防犯や戸締りは不可欠です。

 ここで、一軒の家の要件を国家にあてはめてみましょう。その家の表札は「国旗」であり、隣家との間を区切る垣根は「国境」に該当します。居住域は「領海」、「領空」に相当するでしょう。そして、玄関や窓の鍵、あるいは雨戸やシャッターが「防衛」に譬えられましょう。

 いずれもが家に不可欠な一つ一つであり、また、いずれかの一つでも盗難に遭ったり、破壊に遭うようなことがあれば、家への侵害行為とみなすはずです。国家もまた同様です。

 防衛とは、国家と謂う家自体を守るのみならず、そこに住む国民の安全と生命と財産、および尊厳を守ることを是とすべき位置づけにあり、あらゆる防衛論議の基本にあるべき要件と謂えます。家に防犯が必須であると同様に、国家にも防衛は不可欠な事項と謂えます。

 たとえば、「護憲」を看板とする政党や団体が「非武装中立」や、近年では「無防備都市宣言」を看板に掲げていますが、その論旨からすれば、他の家がどこも防犯をしかと講じているにもかかわらず、わが家の「玄関に鍵は要らない」、「戸締りは要らない」とするに等しい詭弁(きべん)であることは明らかです。

 殊に、世界地図の中の「極東」を観れば。日本と「目と鼻の先」に位置する国々はいずれも強大な軍事力を保有しています。中露や北朝鮮のように核を保有している国々も実在しています。いずれもが軍国主義国家と指摘できます。さらに、それらを背景にするかのように、これらの国々による日本の領土への不法占拠と領土主張が深刻化しており、家に施錠もせず、ドアや窓を開けっ放しで留守にできるような状況ではなおさら無い現実があります。

 これらの現実を粛々と認識してこそ、筋道ある防衛論議が可能になります。現実に即するべき論議が、多くのメディアが論調の是としているかの「軍国主義の復活」や「戦争放棄」の九条(要旨)、とのトラウマの植え付けによって直ちに封印される筋道にはなく、防衛は、主権国家であればこそ、なおさら現実に進めるべき事柄に違いありません。
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安全保障 「日米」と「日中」との根本的な違い

 以上をもとに、現政権下で、現在、日米関係が岐路を迎えている状況を考えてみたく思います。

 そもそも日米関係にはさまざまな功罪はあるでしょう。しかし、日米同盟とそれにもとづく安全保障が存在している現実は、親米、嫌米との感情次元で峻別すべき筋道にはなく、日本国民の安全と生命と財産を守るための針路の上で、日本はどうあるべきか、と。国の将来をこの基軸の上に踏まえる上で、現時点では、日米同盟は不可欠な要素に違いありません。

 日米関係には、確かに功罪両面がともない、安全保障の恩恵のために拠出する対価も小さくありません。しかし、たとえば、そのパートナーが米国ではなく、中国共産党の国であった場合にはどうか。その「差分」を重視する必要があります。たとえば、中国共産党政府を安全保障のパートナーにするとすれば、おそらく、経済的な拠出だけでは済まないのではないでしょうか。少なくとも、代償は領土領海の主権割譲にまでおよび、日本国内も同国と同様の自由無き社会を現出しかねず、且つ、ひとたび自国領とすれば、永久的に手放すことはない相手である、と。そう指摘できます。

 これらの危惧に比べれば、少なくとも、一部に密約があったかに報じられてはおりますが、米国は沖縄、小笠原諸島を日本へ返還し、領土という主権の根幹を尊重し、戦後の民主主義と、ひいては経済的な側面での発展に寄与して来たことも事実です。その現実の中で、一応は、本来、日本の風土にそぐわない日本共産党や社民党、カルトでさえ、その言論の自由を保証されている現実も、安全保障の現実の一端をむしろ物語るものと謂えましょう。

 相手が中国共産党の国であったとすれば、これらも危うかったのではないでしょうか。中国の安全保障下で、嫌中を主張すれば、果たして、どうなるのか。さまざまに、漏れ聞こえて来る中国国内での自国民への弾圧と同様、否、それ以上の過酷な目に遭う可能性は否定できません。

 ごく月並みかもしれませんが、以上の基本的な筋道がさまざまな議論の底にあって然りと考える次第です。

 拙き身ながら、過去の職責ゆえに、米加二国をはじめ、欧州、一部南米を含む十六カ国に赴いた経験を有しています。

 それらの国々すべてが独自の軍隊を保有し、国家観とそれにもとづく国旗、国歌の大切さを子供の頃から教えられ、防衛論議はごく当たり前のことであることを確認してまいりました。言葉悪くて恐縮ですが、斯様に、然るべき国防と、次の世代の安全と生命と財産とを守るべき議論が欠落している現在の日本の様相に、いささかの危機感を覚えてなりません。

 とるべき筋道は、日米安保が存在しているうちに、改憲、ひいては自主憲法を制定することにあります。さらに、それにもとづいた防衛を確立しておくことにあります。

 重要なことは、安全保障が存在し得るうちに、いかなる他国への「安全保障」にも依存しない自国の防衛、国家の綱格を確立することにある、と。物事にはこうした筋道と順序があるべきです。

 その現実の筋道無しに、いたずらに嫌米を謳(うた)ったとしても、果たして、ほくそ笑み、喜ぶ国は一体どこか、と。現実に、日本を取り巻く国際環境の現状に今後の思慮を馳せる必要があります。
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基礎研究と技術開発

 冒頭に申し述べた通り、実体経済は国家の基本的な糧であり、国益の一端をになう重要項目である点に触れました。

 近年の、日本の産業界の傾向を拝察するにつけ、価格競争と新モデル競争という「悪循環」から基本的に脱却する必要があろうかと考えます。

 「価格」「モデル」の二つの競争は、本質的な「競争」とは謂えず、身の切り売りに通じかねない「消耗戦」になりかねません。いわば、どの企業が早く品を変え、安く売るか、と謂う叩き売りの「競争」の域を出ていないからです。そうした状況の中で自然発生するものは、安い部品と労働力の「需要」でしょう。これが上述の「競争」と相まって悪循環と指摘できる流れを広げることになります。自転車操業を強いられているにも等しいことを指摘できます。

 語弊の無いように、ここで申し述べておくべきことは、中国共産党にとっては、実質的に自国民は「部品」か、それ以下の耐久消費財でしかあり得ない。他国の解放(侵略)の先兵、壊し屋として遣わす朝鮮人も、中国共産党にとってはまた然りでしょう。いわば、交易の上で上述の「悪循環」の構造性を造り上げ、終局的には、標的国を手の平の上に乗せ、経済環境を思惑通りに操り、何もかも奪い取る。その仕組みが見えてまいります。

 先ず、この「悪循環」の仕組みに気づき、段階的であっても良いと考えます。海外製造を必要とする製品や部品は、たとえば、友好国インドなどへの委託を次第にシフトし、やがては大きな弧を描きつつ、その先で、日本へ生産の主力が還流する仕組みを先ず考えるべきではないでしょうか。

 インドはさまざまな社会的な問題を抱えている国ですが、しかし、それでも中国共産党の国よりはるかにパートナーたり得ます。インド国内での問題解決が次第に進むほどに、工業技術の分野のみならず、防衛抑止力の上での日本にとってはこの上ないパートナーになり得る潜在力を有する国家と拝察しています。
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日本は富国強兵たるべし

 信頼でき得る国をパートナーとして選ぶとともに、日本独自の基礎研究、技術開発は、今一度、基本発明の分野に立ち還えるべき、と私は研究者の一人としてこう考えています。たとえば、ドイツが生み出したフォルクスワーゲンは、半世紀以上の長きに渡って全世界でベストセラーになりました。小さなモデルチェンジや改良は当然としても、実に長きにわたって一国の外貨獲得の一角を支え続け、国家の顔として同国の国益に貢献したのです。

 日本もこうした、数年の部品保存年限内では到底朽ちない基本発明のメンタリティへと立ち還り、国家が総力を挙げてそれを支援する。その体制の整備が将来において必要です。 トランジスタの発明の親であるショックレー博士の生前に、幸運にも親しく交流させていただいた一人です。博士が発明したトランジスタが、日本の企業の研究開発によって極めて小型の部品へと生まれ変わりました。

 世界を騒然とさせた雲の上の発明が、身近な日常の中の、ラジオやテレビ、家電品の数々への応用が可能になった。そのことについて、後年、ショックレー博士は歓迎の意を示され、日本に敬意を表されていたことが記憶に残ります。世界を席巻した日本のトランジスタ製品は、日本の基礎研究の成果がそこへ相まっての新たな発明と謂えるでしょう。

 その後に、日本企業の研究所が、雑音が限りなくゼロに等しい高性能、超小型(微細)のトランジスタを発明しました。以来、四半世紀、およびさらなる歳月を経ながらも、その「子孫」は現在の宇宙観測システムをはじめ、身近には携帯機器や通信網、パソコンの心臓部にも応用されています。

 そもそも、日本は理科学の力を以って富国強兵たるべきと。誇れる日本の先人は、その後に、瞬く間に西欧列強も驚く富国の基をなした国家の針路を示しました。国を支える基本発明、ひいては諸策、国策は、国の十年先、五十年先、百年先をしかと見据え、良識が思慮を尽くすべきで、この確たる国家観のもとに初めてなし得るもの謂えましょう。また、この国を護る確たる防衛力を兼備すべきです。このごく基本的な国家観は、何事においてもその根底に不可欠なベクトルと謂えましょう。
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国思う若いみなさまへ

 以上、ごく基本的な諸点を概括して申し述べましたが、教育には、自国を尊厳を守りつつ、これらを子々孫々に教えるべき立場にあります。また、将来ある若いみなさまには、これら在るべき方向性を確認され、進むそれぞれの分野での、職責をまっとうしていただきたく念願しております。

(平成23年4月23日の「国思う勉強会」(第一部)より)
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