2013/02/04(月) 15:50:00 [特亜/四亜]

20121210008   

南朝鮮“研究家”の嘘八百 


 【読者】 南朝鮮の研究家と称する工作員?が嘘を世界に拡散しようとしていますね(Web) 。 すぐ嘘への追及記事(Web)も出ましたが、南朝鮮は静観しているようです。

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ガジェット通信Web) 平成25年2月3日付記事 
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 いつもの事とは言え、何もしなければ嘘も百回言えば事実に摩り替えられますので政府には毅然とした対応が求められるのですが。
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■ 上記に関する南朝鮮紙の報道:

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聯合ニュース (Web) 平成25年2月3日付記事より 
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中央日報 (Web) 平成25年2月3日付記事より 
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南朝鮮「国技の捏造」ここにも

 貴重なご投稿に感謝します。長くなりそうなので、以下、「です、ます」を省いて記させていただきます。

 「聯合ニュース」「中央日報」という南朝鮮紙に記事(同文)が掲載された。記事には、「関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺をめぐり、東京都教育委員会が来年度版の高校日本史の副読本から「虐殺」の文言を変更すると発表したことに批判が高まる中、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギル氏が3日、虐殺事件当時に撮影されたとみられる写真を聯合ニュースに公開した」とする写真は、実際は、明治44年に発生した吉原大火で亡くなった女郎さんたちのご遺体の記憶写真(東北芸術工科大学所蔵)であった。

 チョン氏が公表したとする“写真”では、オリジナルでは手「前にある石の箇所に「新吉原公園之惨状」と書かれているが、チョン・ソンギル氏が訴えかけている同じ写真はその文字が消えている」と。さらに、チョン氏の写真上部には「大正十二年九月一日」と有るが、そもそものオリジナルにはその記述は存在していない。そのすり替えを「ガジェット通信」がいち早く指摘していることが、上記韓国紙の“報道”直後に分かっている。

 オリジナルの写真の出典は以下の通り。
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■ 上記の“研究家”盗用の写真の出典元:

20130204004 
東北芸術工科大学 東北文化研究センター アーカイブス
「新吉原公園の惨状」「新吉原公園の惨状・吉原大火・明治44年・吉原 , 災害・大火・火事 , 遺体」(
Web) 
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吉原大火の状況について

 吉原大火の状況については、財団法人 消防科学総合センター(Web) (巻頭随想 防災活動と歴史研究)にこう触れられている。

 「明治44年の吉原大火で大火の時には多くの消火栓が開かれるため,水圧が低下して消防が困難になることは痛感されていた。それにもかかわらず,大火となった場合に多数が出場する消防組の装備を見直さなかったのは,当時の当局者の失策であろう。しかし,震災後にも組織や装備の改善は常備の消防隊に限られ,消防組には何ら新しい装備は与えられなかった」と。

 当時、東京にはすでに消火栓が設置されていたが、一斉放水すると水圧が低下して消火に資すべき水が火の手に届かなかった。不本意ながら、それが延焼(大火)を止められずに犠牲者(吉原の女郎さんたち)多数につなかってしまった。後世の消防活動の教訓とすべき一つであったと。そうした意味から「巻頭随想」に触れられているものと拝察できる。
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チョン氏の「心理の投影」

 取り敢えずご遺体を並べる。それは災害時に犠牲者が出た場合に、身元確認、埋葬などを前提とした臨時措置として必要であり、16カ国を観て来た一人として、その手法は国を問わない常であることを指摘させていただく。

 次に、「写真には数十人の遺体が写っており、遺体の下衣は取られている」とあるが、当時、吉原の大火は客足がほとんど無い昼間の惨事であり、夜の商いをする女郎さんたちが睡眠、休養に資する時間帯であった。長襦袢や薄着一枚の姿が一般的であったとされる。そこへ不測の火の手が上がり、冷静に逃げる余裕も無く、生きて火事場から逃れようとした多くが大火の炎熱から逃れるために近くの池に飛び込んで溺死した。その過程で長襦袢などが水中で脱げてしまった。

 鎮火後、そうしたご遺体を消防に資した方々や一般人などが引き揚げ、取り敢えず並べて差し上げた。「遺体の周囲には男性らが長い棒を手にして立っている」のは、瓦礫を押しのけるなどして、別の遺体が無いかと捜索する。そのためであって、これも国を問わない取り敢えずの捜索方法であることを、目の当たりにして来た一人である。オリジナルの一枚は、先ずそれら災害後の様子を物語るものと重々考察し得るのであって、女郎さん達が今日のように西洋式の下着を身につけておられたわけではなく、チョン氏の「遺体の死体が取られている」との言句は適正ではない。

 そのメンタリティこそは、むしろ「屍姦(しかん)」と謂う女性の遺体にまで凌辱を加えることも伝統的に恥じない朝鮮人、支那人特有の性癖、特異性が窺える点も付記しておく。いわば、上記の偽造とおぞましい説明は、汝の病理を投影したものと認識すれば事の次第が判りやすくなるのではないか。
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「大正十二年九月一日」の捏造

 当時、昼時刻近く(11時58分)に発生した関東大震災による大規模な火災がようやく鎮火を見たのは発生後2日を経た9月3日の午前中であったとされている。チョン氏が書き加えて捏造した「大正十二年九月一日」は大火災が広がる最中に当たり、写真のような遺体を確認のために並べるとする光景は現出も記録も困難であった。吉原の大火とは規模が異なるのである。

 それをわざわざ「大正十二年九月一日」と捏造する。言葉は悪いが、むしろ、直ぐに「バレる」朝鮮人の虚偽虚構の性癖を「自ら如実に物語る事例」に他なるまい
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朝鮮人の蛮行の数々

 ちなみに、「防災情報のページ」(Web) には、関東大震災についてこう記している。「余りの混乱で社会不安が増大、「朝鮮人が放火」「井戸に毒を投げ入れた」など流言やデマが飛び交い朝鮮人が群集らに虐殺される痛ましい事件(韓国政府によると虐殺3000~6000人、北朝鮮では2万人虐殺と報道される。当時の朝鮮総督府の調査では、関東大震災による朝鮮人死者・行方不明者総数は832人、うち司法省調査による朝鮮人虐殺者数は死亡233人、重傷15人、軽症27人、その他、朝鮮人と間違われて殺害された日本人58人、中国人3人とされている)や、亀戸事件や甘粕事件と呼ばれる労働運動や社会主義運動指導者の殺害事件も混乱に紛れて発生した」と。

 チョン氏は「虐殺で犠牲になった約6000人に上る朝鮮人の魂はわれわれが守らなければならない」としておられるが、その誇大妄想的な数値の肥大も朝鮮人さながらの誇妄の病理の一つと指摘できる。当時の「朝鮮人死亡者233人」(当時の司法省調査)は、災害時に紛れた朝鮮人の悪行、蛮行に対して、日本人が家族を、子供を守ろうとした自衛、正当防衛の結果であり、朝鮮人による膨大な犯罪の数々の方が問われないことの方が不自然である。

 まして、震災当初、先帝陛下(昭和天皇)への獣撃、狼藉がおよぶのを懸念し、むしろ朝鮮人による数々の蛮行に関する「報道管制(当時)を敷いていた事実も有る。管制解禁はむしろ震災から相応の日数を経てのことであって、当時の震災翌月(10月)になって、初めて報道管制が解かれた後の報道を記録の中に見出すことが出来る。以下は、数多の報道記録(当時)のごく一つに過ぎないが、災害のどさくさに紛れての朝鮮人による、日本人に対する放火、暴力、略奪、婦女暴行の数々が報じられている。

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讀賣新聞 大正12年10月21日
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 戦後の混乱期にも朝鮮人は同様の悪行を繰り返している。GHQの記録にも一部が残されているが、チョン氏はそれらをどうご覧になるだろうか。説明を伺いたいものだ。

 朝鮮人が「朝鮮義勇軍」の名において、一体、どれほど多数の日本人を殺傷せしめ、強姦し、焼け跡となっていた土地をバラック占拠や闇市化などで奪い取ったことか。竹島の不法占拠によって、一体、何人の日本漁民を殺害し、拘束したか。余りの暴虐に、それこそ傷跡未だ癒えぬ遺族方々がこの日本に実在しているのである。

(以上、博士の独り言より)
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■ 主な関連記事:

韓国軍の悪行 2012/12/29 
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201300204008   
路傍にて(筆者)
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 baner20121001

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