官房長官「河野談話は変更しない」考
2012/08/29(水) 23:20:49 [特亜/四亜]
迷惑な「河野談話」 に問う
「おわびと反省」の河野談話「変更しない」 慰安婦問題で藤村官房長官
藤村修官房長官は29日午前の記者会見で、従軍慰安婦問題への「おわびと反省」を表明した1993年の河野洋平官房長官談話を野田政権として踏襲する考えを重ねて示した。「歴代の政権で引き継いでおり、現政権も変更する立場にはない」と述べた。産経新聞(Web) 8月29日付記事より参照のため抜粋引用/同記事より資料として参照のため引用
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「現政権も変更する立場にはない」
表題は、藤村修氏(官房長官)が記者会見(29日午前)で、ここへ来て見直し論が出ている「従軍慰安婦問題への「おわびと反省」を表明した」とする「河野談話」(平成5年)について、「野田政権として踏襲する考え」であり、「歴代の政権で引き継いでおり、現政権も変更する立場にはない」と述べた」と伝える記事である。
政治家諸氏の一部が本格的な再検証を問い始めたこのタイミングに、さっさと水をかけて“事を収めよう”とするかの藤村氏の会見に、なんだかなあ、と。あるいは、それでも男か、と。いささかの違和感を抱かれた読者は少なくないことかと拝察する。所詮、前向きな発言を期待するのも無理で、良くて「毒にも薬にもならない」言しか並べない。その地金を問えば、その実体は「亜」の傀儡政権の広報担当でしかない。
最近のその典型の一つが、尖閣諸島を「国が管理」すべしと仰りながら、地権買取りを前提とした都の事前調査のための「上陸申請」をさっさと却下なさる。それまで幾分かは“まとも”に映るかの言を配しておられることがありながらも、しかし、いざとなれば“支那(China)様”、南朝鮮(South Korea)様”には逆らえない、とでも言いたげな国賊的な「妨害」に出られる。現政権のこうした蛇行、迷走ぶりが、良識のみなさまが次期政権を選ばれる時の、次なる「一票」の重要なご参考としていただけることを願わずにおれない。
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存在しなかった“従軍慰安婦”
ブログの前版、その後の小稿でも重々指摘させていただいたことだが、概略をあらためてここに記すば、多くの読者がよくご存知の通り、上記の「河野談話」に登場する“従軍慰安婦”は存在しなかったのである。先ず、戦争下における軍従事者に対する娼売と、それに従事した婦女は、世界各国で自然発生的に存在しており、たとえば、日本にとっては戦後に発生した朝鮮戦争下でも参戦国の兵士に累と見られた事例でもあり、大東亜戦争下での日本兵士に見られた買春の事例のみが特別では無い。
殊更に、日本兵士のケースのみを採り上げ、しかも針小棒大に喧伝し、それを“従軍慰安婦”と差し替える。それが、今回の戦後に南挑戦が編み出した特有の捏造史観の一つとなっているが、くれぐれもそうした虚構の“従軍慰安婦”と、当時、朝鮮人業者らが「慰安婦を募集」し、売り込んで来た軍従事者に対する商行為とは、事の性質が全く異なるため、本質の明確な峻別が先ず必要だ。
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小野田寛郎氏の証言
併せて、小野田寛郎氏の証言についても、以前によく紹介させていただいたので、読者の多くはご存知のことかと思う。小野田氏の「私が見た従軍慰安婦の正体」と題する「正論」への寄稿を、あらためてご参照いたいただける機会が有れば幸いである。
寄稿の冒頭に、小野田氏は『首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている』と、他国(特定国)の言いがかりのおぞましさを斬り捨てておられる。
続いて、『戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた」、と証言を寄せられた趣旨を明かされている。同氏の指摘通り「「慰安婦」は完全な「商行為」であった」と。ここが重要である。
「商行為」。つまり、現地人の業者らが娼婦を広告で公募して商売していたのである。広告の画像の幾つかについても、以前の小稿に紹介させていただいたが、たとえば、記されていた内容は、「慰安婦を募集!月給300円以上!3000円まで借金が可能!」と。あらかじめ応募者了解の上で娼婦業の募集していたことを示すものに他ならず、そこには“従軍”も“強制”も存在しておらず、待遇の上でも、警察官(巡査)の初任給が約45円の時代であったことに照らせば、まさに高給と謂える。
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「従軍慰安婦」と言う言葉さえ、存在しなかった
上記の寄稿の中で小野田氏はこうも記されている。「大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ」と。
この小野田氏の指摘は、以前にお会いした戦争経験者方々の言資と一致している。つまり、捏造史観をもとにしての“従軍慰安婦”が政府関係者の言資に登場したのは、表題の「河野談話」であり、戦後はるかに50年を経ようかとしていた頃の不可思議であった。小野田氏は寄稿を次のように締め括られている。
「「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか」と。まさに本質を見事に射抜かれた指摘かと拝察する。
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南朝鮮の対日毀損、賠償請求の踏み台
先ず、以上が、南挑戦が虚構の踏み台に利用して来た事の本質である。そのような虚構が何処から来たのか、と問えば、やはり中国共産党機関上「人民網(人民日報)」の提携和紙「朝日新聞」であった。朝日新聞は、吉田清治(本名・吉田雄兎)氏なる人物の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」(1983年)をもとに、独自に満足な検証もせずに記事を平成3年(1991年)からその翌年にかけての4回にわたり掲載した。さらに、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」の一人が名乗り出た、との“報道”も加えている。
この吉田清治氏は、確かに陸軍軍人の経歴を持つが、昭和二十二年(1947年)に、下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補して落選している。その三十年後に「朝鮮人慰安婦と日本人」(昭和52年)を新人物往来社から出版。その中で、戦時中に日本軍人が朝鮮の女性を強制連行して慰安婦にしたと記述。その五年後の昭和五十七年(1982年)に、第一次樺太朝鮮人裁判で“朝鮮人奴隷狩り”を証言し、そして、上述の朝日新聞の“従軍慰安婦”報道の題材となった『私の戦争犯罪』を出版している。
戦時経験者方々の大多数にとっては、実体験では見も聞きもしなかった虚構が、この一人の人物によってじくじくと造成され、さらに、虚構の定番とも指摘すべき朝日新聞が、件の手法によってそれがあたかも“史実”であるかに捏造されたのである。
たとえば、「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」の中では、済州島における「慰安婦強制連行」は1週間におよび、10人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊により行なった。その徴発隊は、「島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいた」と記している。朝日新聞の報道に続いて、日本共産党の機関紙・赤旗は、「昭和十八・十九の二年間で千人以上」(1992年1月26日)と報道。朝日新聞も「吉田さんらが連行した女性は少なくみても九百五十人」(1992年1月23日夕刊)と。赤旗紙も、さながら客観的検証の跡も見られない“追い討ち”をかけたのであった。
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吉田“証言”の虚偽を暴いた秦郁彦氏
この吉田氏の“証言”をもとにした報道に疑問を持った秦郁彦氏(日大教授)は、平成四年(1992年)3月29日から済州島に渡り実地検証を行なった。検証を前に、秦氏は吉田に連絡をとり、「裏付けをとりたいので済州島の慰安婦狩に同行した部下の誰かを紹介して欲しい」と同行を依頼している。だが、これを吉田は拒否。「本を書く時に2、3人に会って記憶を整理した」ことは認めたが、その「会った人物」さえ「絶対に教えられない」と拒絶したのであった。その実態は、“本を書くため”に「会った人物」さえも存在していなかったことを暴露している。
秦氏は通訳を伴い、吉田氏が“従軍慰安婦”狩りの舞台と記した済州島の城山浦に渡航して綿密な実地検証を行なった。
城山浦の老人クラブを訪れ、被害者となった女性工員が働いていた貝ボタン工場の元組合員などの老人に話を確認した結果、吉田氏の“証言”が事実ではないことを確認。当時を知る同島の島民は、「この島で人間狩りが起こったら大騒ぎになって誰でも知っているはずだが、そんな話は聞いたことすらない」、との証言まで得た。
秦氏は、その検証の状況を自著「慰安婦と戦場の性」の中に記しており、虚構が白日の下に晒された吉田氏は、後の平成八年の「週刊新潮」掲載のインタビュー(5月29日付)で、「本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやるじゃないか」、とくさくさと開き直り、「人間狩りを行った場所は創作を交えた」ことを認めたが、しかし、“人間狩り”をしたという主張は変えなかった。それにもかかわらず、吉田氏は自著の中から“事実”と主張する部分と、創作の部分との選り分け、分離を拒否し続け、客観的な検証すら不可能なために、吉田“証言”の証拠能力は、当時、すでに皆無となっている。
思想信条の面で、筆者は必ずしも秦氏に共鳴する立場にはないが、客観的な実地検証をもとに、メディアや団体によって膨らむ“証言”の虚構を暴かれたスタンスについては、「真」「偽」の峻別を基点とする理工系研究者の一人として賛同し、心より敬意を表するものである。
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“従軍慰安婦”騒動の踏み台となった「河野談話」
河野洋平氏が官房長官であられた時期に、当時、南朝鮮側からこの“従軍慰安婦”の虚構を持ち出し、「強制性を認めればこの問題を収める」という持ちかけが河野氏になされた。まさに「亜」特有の罠(わな)であったにもかかわらず、それを見抜けなかったためか、河野洋平氏が南朝鮮作成ののシナリオを読み上げるかのように“謝罪”した。それが表題の「河野談話」である。談話を一度発すれば「この問題は収める」、との南朝鮮側の言葉は「騙(だま)し」以外の何物でなかったことは、「河野談話」以降今日までの南朝鮮の実態を観れば「火を見るより明らか」ではないか。
その「河野談話」を新たな基点とするかのように、その後の村山富市氏(その後の首相)も“謝罪”し、なりすましの自称“従軍慰安婦”が大量発生したのである。 上述の通り、吉田清治氏の虚構が暴かれ後は、歴代首脳の度々の謝罪が、「亜」の“嘘”をあたかも真実であるかのように変えてしまい、南朝鮮、ひいては「亜」による、汝の国の混濁は棚に上げたかの如くの対日毀損宣伝の具と化してしまったのである。その罪は万死に値しよう。
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証拠では無く、気持ちで語った「河野談話」
その河野氏は、平成20年(2008年)9月18日に、体調問題などを理由にその後の衆院選に出馬せず、政界を引退する考えを正式に表明している。その様子を伝える当時の記事(産経紙面)が有るので、ご参考までにここにクリップさせていただきたい。
産経新聞記事(切り抜き)(平成20年9月19日朝刊より)
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紙面にはこう有る。「宮沢政権下の官房長官時代に、慰安婦募集における日本軍関与の強制性を認めた「河野官房長官談話」を出したことについて、「宮沢内閣としての気持ちを申し上げたものであって、私が個人的に申し上げたものではない」と語った」と。続けて、「その一方で、「今も極めて重要な談話であったと思う。私の本当の気持ちだ」とも述べた」としている。この河野氏の引退会見の無慚(むざん)さについては、当時、多くの有志ブログがあつかわれ、その矛盾を余すところ無く指摘され、論及されていたことと記憶している。
小ブログも指摘させていただいたことだが、「河野談話」の実体は、「問題を収める」。この南朝鮮側の“説得(その実は騙し)”に反応した、事なかれ主義の産物に過ぎないのである。、自称慰安婦たちの“証言”の裏付けも取らず、また、検証らしき検証も行なわずに、それらの“証言”を唯一の証拠として慰安婦の強制性を認めて“謝罪”におよんだのである。
まして、図らずも、ここで、河野氏は「私の本当の気持ちだ」と述べられているが、これほど危険なことは無い。私人であれ、まして「公人」の場合、「気持ち」と客観的な「事実」とは往々にして異なることが有るからだ。
たとえば、筆者の分野で、この河野氏と同様のノリで、実験や客観的な検証、確認をせずに、その素粒子の存在を「気持ち」で発見したとして小論や論文を差し出しすとすれば、「そんな、莫迦な!」と一蹴されて終わりである。第三者の論考にも寄与せず、引用にも値しないであろう。河野氏の談話に「骨格」を問うとすればその程度のレベルに過ぎない。このレベルでの「談話」を、一人の物理学者に比して百千万倍もの影響力を持つ一国の「官房長官」の立場から、何を利用して来るか、その蛮性も果てない相手に発したのであるからお粗末に過ぎる。
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【筆者記】 早期の「河野談話」の見直し、撤廃を
概略ながら、以上の経緯で生まれた「河野談話」を一国の政府が“踏襲”し続けるとすれば、「虚構」を踏襲し続けるに等しく、それこそ敷島の恥に他ならない。だが、ここへ来て、同談話の見直しを問う声が政治家諸氏の間で再び上がり始めたことは一つの幸いと謂える。声が機運になり、次代を守る良識の総力と合わせて、新たな政権で早期の「河野談話」の見直し、撤廃がなされることを、対日毀損に対峙して来た国民の一人として切望して止まない。短稿にて。
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日本は毅然とあれ!
路傍にて(筆者)
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