--/--/--(--) --:--:-- [スポンサー広告]

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2011/12/04(日) 14:38:36 [「博士の独り言」記事より]

20101230077



平成21年6月21日付メモより重稿
国思う若者を育てよう
日本から、対日毀損を凌駕する発信を


20090621002
【土・日曜日に書く】政治部・福島香織 “親日風南京映画”への対抗策
 (前略)先日、この南京映画のDVDを見た。壮絶な大虐殺シーンと陵辱シーン満載のモノクロ映像は、ドキュメンタリーのように臨場感があった。自分の家族を守るために密告するジョン・ラーベの中国人秘書。売春婦に恋する純情な日本兵士。日本人も人間的に共感をもって描いたいわば“親日風南京映画”だ。だが、旧日本軍が南京で無差別虐殺を行い、手当たりしだい女性を陵辱した行為を疑うべくもない事実として描く一方で、唐生智・国民党軍南京防衛軍司令官が自軍に玉砕命令を出しながら自身は逃走したといった史実には触れておらず、あくまで中国側の歴史認識を広報する政治宣伝作品であることは間違いない。産経新聞記事(切り抜き)平成21年6月21日朝刊(7面)より参照のため抜粋引用/写真は産経新聞の同紙面より参照のため引用
----------

中国共産党「プロパガンダ」の新手法

 読者の中には、いわゆる、南京大虐殺はあった。または、30万人の大虐殺は信じられないが、それに類する事件はあった、と。あるいは、南京大虐殺は元々存在しなかった、と認識しておられる方も少なくないことと思う。それぞれに認識が違う。そうした事例は、何も“南京事件”に限ったことではない。いわゆる、“従軍慰安婦”や“強制連行”に関しても、同様に、認識が分かれているのかもしれない。しかし、認識はあくまで「認識」であり、それが「事実」とは異なる「認識」であれば、直ちに、それまでの「認識」の修正をした方が良い。たとえ、「認識」はいくつもあり得るとしても、「事実」は1つしか存在していないからである。

 また、それが「事実」か、否か。判別が困難な場合は、事の次第や時系列的に洗い直し、客観的に、その経緯から「正」「誤」をもとに判別する方法が有効である。たとえば、国思う調査隊(非組織)の調査の上で、実際に行き当たった事例だが、私は、日本に強制連行されてきた。日本は反省しろ、謝罪しろ、賠償をしろ、と主張する外国籍者がおられた。さて、お年はおいくつですか、と尋ねれば、59歳とおっしゃる。とすると、お生まれは1949年か50年あたりですか、と尋ね返すと、1950年と答えられた。ええと、終戦はいつかといえば、1945年ですね。1950年生まれの方が強制連行で連れて来られたのですか、と尋ね返すと、莫迦野郎、おまえみたいな若造に何が判るか、と凄まれたことがあった。聡明な読者には、すでにお気づきのことと思うが、「正」「誤」をもとに判別すれば、この外国籍者が語る「強制連行で日本に連れて来られた」とする経緯は明らかに「誤」である。ゆえに、その主張は「偽」であると判別できる。これは、1つしか無い「事実」を「認識」する方法の端例に過ぎないが、しかし、重要である。

 ところが、あるべき事の次第の「正」「誤」の判別を怠り、あるいは、その方途も知らずに、たとえば、上述のような外国籍者が目の前に現れて、「強制連行で日本に連れて来られた」と言い出せば、はあ、そうですか、と頭を下げてしまう人が意外に多い。だって、朝日新聞や毎日新聞が「そう書いている」し、テレビでも「そう言っている」から、とおっしゃる。いわば、思考停止の典型的な事例と謂えるのかもしれない。言葉は悪いが、折角の「脳みそ」が何のためにあるのか。そう思えば、人間として勿体ないことにさえ映る。たとえば、運転する自動車が接触事故に遭ったとする。こちらは道を淡々と進んでいたにもかかわらず、相手がいきなり道角から飛び出して来てぶつかって来た、とする。さて、パトカーが検証に駆けつけて来た。その時に、たとえば、「俺が角を曲がって道に出ようとしたら、こいつが停止もしないでぶつかって来た」、と相手が嘘を言い出したら、どうするか。警官の前で、事の状況と次第を説明して、相手の主張がむしろ「嘘」であることを証明しようと努められるのではないか。
----------

「脳みそ」機能停止は(=イコール)政治家の死

 わが身に関わることであれば、人はこうして真剣になれる。その「わが身」を社会に、ひいては、日本に広げて考えることも必要ではないか。「わが身」と同じように「真剣」になるべきではないか、との問いかけする意味がここにある。特定国が吹聴宣伝する“歴史問題”もまた、裏を返せば、「わが身」に降りかかることであり、そこに「虚偽」の疑いがあれば、やはり、冷静な「正」「誤」の判別を以って、真剣に対処すべきである。さもなくば、かの国々が意図しているような、恒久的な賠償国家に日本は固定されてしまう。

 言葉は悪いが、特定国に隷従するかの、「脳みそ」が機能停止したような一部の政治家や、大学構内でヘルメットを被ってピケを張っていたようなような人々は、次第に死滅して行くだろう。だから、一部の政治家やメディアの経営管理層は、あたかも、後のことは「かまわない」との、無責任なメンタリティにあって平然としていられるのかもしれないが。若い層の我々や将来ある青年層、その次の子供たちの世代は、この日本に生きなければならない。「脳みそ」が機能停止したかの、これらの人々の無責任によって、次の世代に無類の負荷を負わせて良いものだろうか。こう考えれば、まさに、すべては「わが身」のことに帰着して来るのではないか。

 たとえば、歴史を振り返ってはいけない。中国、南北朝鮮の“歴史”解釈を受け入れ、あるいはそれらの国々の学者の見解に従うべき(要旨)、とする民主党の法案が国会を通り、法制化されるようなことになれば、“南京事件”は本当にあったのか、と学術的に問うことも、あるいは、“従軍慰安婦”や“強制連行”はなかったのではないか、とする研究さえも、処罰の対象とされてしまう。日本をこのような国にして良いのだろうか。良識が、1人、また1人と、この危惧にそろそろ目覚めていただきたく願い、地道ながら、国思う活動を進めさせていただいている次第である。
----------

朝日新聞から生まれた“南京大虐殺”

 余談が長くなって恐縮。小稿に、産経新聞の福島香織記者による署名記事を参照させていただきたい。今年公開となった「党中央宣伝部推奨の建国60周年記念映画」としての、“南京事件”をテーマにした映画だが、中国国内でも相応の収益を上げたようだ。その内容には、やや人間味を持たせた「日本人将校」などを登場させることによって、福島氏が“親日風南京映画”と揶揄(やゆ)する作風になっている模様だ。だが、映画に含まれる“親日風味”は「隠し味」の手法とも謂えよう。たとえば、汁粉の甘さを際立たせるために「塩」を微量加え、あるいは、パスタ料理でトマト風味を引き立てるために「醤油」を少々使うのに似ている。総じては、“南京事件”はこれほど酷かった、とむしろ強調するためのものとも指摘できる。

 そもそも、南京の局地戦は存在したが、“南京大虐殺”は存在しなかった。これは、単に、筆者の認識に終わるものではなく「事実」である。すでに、多くの読者のみなさまはご存知のことかと思うが、事の次第はこうだ。昭和47年(1972年)の「日中国交回復」に先立つ昭和45年(1970 年)に、当時の朝日新聞社長の広岡知男氏の指示で、中国共産党の『文化大革命』礼賛記事を紙面に掲載した。中国共産党の機関紙「人民網(人民日報)」との提携開始もこの時期と思われる。また、同時期は、先稿で紹介した、公明訪中団と中国共産党による「共同声明」発行とも符合している点が興味深い。朝日新聞は、この文革礼賛記事を皮切りとして、翌年(昭和46年)から“南京大虐殺”という虚構宣伝のキャンペーンを開始したのである。

 同紙記者の本多勝一氏による『中国への旅』を連載して、この虚構は広がったのである。この朝日新聞は、在るべき検証を悉(ことごと)く省いて報道し、当時は、新聞は正確たり得る情報源と信頼していた日本国民に対して、あらぬ「罪悪感」の一大流布に成功したのである。無論、ネットがある時代ではなく、当時の日本国民にとって新聞やテレビは、今にもまして影響力を持つメディアであったことは謂うまでもない。いわば、「まさか新聞が嘘を書かないだろう」、その認識が未だ支配的だったのである。この時代に、新聞を疑えるほどの視線を成熟させることは不可能であり、その社会的な「盲点」を衝くかのようにして、これらの虚構はまたたく間に広まったのである。

 朝日新聞の大報道の「真」「偽」や如何に。そこで、経緯から「正」「誤」を判別すれば、昭和53年(1978年)に、日本の中学校教科書に“南京大虐殺”が記述されるに至っているが、だが、同年の中華人民共和国の教科書には“南京大虐殺”の記載は無い。もっと指摘すれば、事件があったとされる1937年から42年間にわたって「中共の教科書」には“南京大虐殺”は記載されていなかったのであり、1978年になって、日本の教科書が先に載せた。仮初めにも事実であるとしたら、同国の特定からすれば、もっともっと早い時期に、中国共産党は騒いでいたはずである。この経緯をもとに淡々と検証すれば、その背景には、これなら「使える」と言わんばかりの、上述の朝日新聞などを通じた対日プロパガンダの「先行」があり、それ自体が、むしろ、件の虚構が、「戦後」における隷中メディアが尖兵となった捏造報道の証左と指摘できるのある。
----------

良識の「眼」は欺けず

 現在でも、“ 南京虐殺”を肯定する人々にその理由を尋ねれば、その中には、「朝日新聞が書いているから」との“理由”が最も目立つ。また、「テレビで言ってたから」とか、「先生が言ってたから」、「教科書に書いてあるから」との理由も伺ったこともある。当人にしてみれば、「事実」なのかも知れないが、事の「真」「偽」の根拠は、『それだけなのか?』とお尋ねしたいのである。どうして、「テレビで言うようになった」のか。なぜ、「先生が言うようになった」のか。また、なぜ、「教科書に載るようになったのか」と。その淵源に遡及(そきゅう)して、事の次第を調べ上げ、むしろ、客観的な検証を重々加える必要がある。別の件になるが、このことは、特に、不可欠な客観的な検証もろくせず、南朝鮮の“従軍慰安婦”を認めて談話まで発してしまった河野洋平氏に問いたいことでもある。

 以上の視点からすれば、時系列的にも、「1937年」の“南京事件”は、“天声”事後に堕ちる「朝日新聞」の紙面から造り出された虚構であることは明白だ。戦後の約3年間に、莫大な数の自国民の命を奪った中国共産党と国民党軍の内戦で、殺害された中国人の遺骨を掘り出しては、“日本軍に虐殺された犠牲者”であるかのように宣伝する、いわゆる“記念館”方式のプロパガンダは、もはや、ごく基礎的な検証を重んじる国思う良識の「眼」には、まったく通用しないことを知るべきである。

 記事の後段に、福島氏は、通称「アニメの殿堂」(国立メディア芸術総合センター)について触れておられる。作品の保存収集のみならず、むしろ、日本から、たとえば、中国の文化発信力育成戦略に対抗するには発想があっても良いのではないか、と指摘しておられる。同感である。そして、結びに云く、「中国の宣伝する対日歴史認識を凌駕(りょうが)するような日本イメージを世界に発信できる若いクリエーターの大量育成に同じ額の予算を投じたら、リターンはもっと大きい気がする」とある。同感である。先年の小稿でも、同様の指摘をさせていただいたが、むしろ、特定国の“歴史認識”を覆すアニメが、日本から発信されるようになれば有意義ではないか。また、アニメ作りを通じて、日本に誇りを持ち、発信力のある頼もしい若者を沢山育てる。それは、国思う学校という形でも良い。これについて、僭越ながら、総理に提案の書簡を書かせていただくつもりだ。
----------

■ 主な関連記事:

虚構「南京事件」を打ち破れ! 2007/12/17 
中国「捏造宣伝」にNOを! 2007/06/02 
----------

【筆者記】

 まったくの余談で恐縮。(平成21年)7月の勉強会で少しお話したくと考えていることだが、学生時代(第2次学生時代)に、研究室を通じて、海底通信ケーブルの中継ポイントに使う「クロックリカバリ」と呼ばれるLSIの研究開発に従事したことがあった。「クロックリカバリ」はデジタル通信には欠かせない信号波形を維持するに必要なデバイスで、これが機能しなければ、総計何百キロ、何千キロという長さを持つ長遠な通信網の構築は不可能になる。半導体は、通常、7、8年が寿命といわれた時代のことであった。一度、船上から海底へ埋設したら、頻繁にメンテナンスが出来ない。少なくとも10年、15年はそのまま使用できるものでなくてはならない、との厳しい要件があった。

 それなら、それだけの耐用性を持ったLSIを作れば良い、と。理論上は、100年間使用しても「故障ゼロ」のデバイス開発にさっさと成功した。日本人は、難しい仕事も苦にせずに、平然とやってのける。素晴らしい、とそう賞賛いただいた。だが、日本人が素晴らしいのはごく当たり前のことで、それもこれも、筆者がどうのこうのではなく、そもそもが、国思う読者のみなさまがそうであるように、日本人は魂の質からして違うのである。

 事は単純で、そもそもが、新製品のための市場を維持するために、わずか7,8年で寿命が来るように半導体は設計されている、とも謂える。そこで、発想を置き換えて、その「ある点」を改良すれば、短いサイクルの市場性は失うが、耐用性は飛躍的に伸びることがわかった。その着想をもとに、余剰回路を省くとともに、主要の回路を多重・最適化してバイパスさせ、しかし、素材比の工夫により、小型で消費電量が少なく、そう簡単には壊れないものを開発した。世界に誇れる日本の発明である「HEMT (ヘムト)High Electron Mobility Transistor(高電子移動度トランジスタ)」も使用し、ノイズにも強い耐性を持つデバイスが出来上がった。現在も海の底で無数に使用されており、その孫、ひ孫、そのまた孫に当たる製品も、現下の、衛星のデジタル通信や携帯電話にも使用されている。その時も、拙き仕事は、事の「真」「偽」、「正」「誤」で成り立っていた。余談ばかりで恐縮。以上、記事を参照し、小考を報告する。
----------

 読者のみなさまにはお忙しい中、ご訪問をいただき感謝します。ここに、新たに記事をアップさせていただけたことを有難く思います。 拙い記事に対し、国思う有志、読者のみなさまよりいただく、内容を的確にフォローくださるコメント、アドバイスに感謝します。一 日一日を大切に、みなさまと共に考え、真実を共有できればと願っています。事実を指摘する批判は「悪口」ではなく、真実を掘り出し、その共有のために不 可欠です。また、真実の共有はすべての第一歩です。正論は真実から生まれ、良識の声は必ず力になります。辛抱強く支えてくださるみなさまから、いただく日々新たな応援に心より感謝します。
----------

 以上、平成21年6月21日付メモより重稿
----------

■ 関連記事と資料:

平成23年5月4日 見抜くべき「亜」の国害
平成23年4月23日 (第一部)
日本の新たな夜明け

-------
□ 平成22年11月21日 訪問勉強会 特亜および露西亜の真実
---------- 


【筆者追記】

“南京虐殺”の虚構を迎撃す 

 みなさまにおかれてはご多忙の中、日々新たなご訪問をいただき感謝します。報じられる野田首相の訪中(十二月中旬)が間近となりました。実施とあれば、先年の同党訪中団を慣例としてか、中国共産党政府による南京虐殺の対日プロパガンダが盛んになる時期の訪中となる。それに併せての動きか、あるいは、そもそもが自国の平に乗せるかのように仕組んだ流れなのか。良識のみなさまにはかねてより予測しておられたことかと思いますが、“南京虐殺”を対日交渉カードに用いる準備を進めている。その様子が色濃く窺える時節となりました。これに野田首相がどう対処されるのか、さらないのか。本来、政治家には、たとえ銃弾に倒れても国家の名誉と未来を護り抜くべき使命があるはずですが、言われるがままに、なされるがままに大人しく帰国されるのか。注目すべき動向の一つと謂えましょう。
 

  しかし、あらぬ虚構の負荷を次世代に背負わせるわけにはまいりません。事実にもとにする国思う研究者の一人として、日本防衛のため、次世代を護るために、良識のみなさまとともに粛とした歩を進めてまいりたく思います。時期に合わせて、“南京虐殺”の虚構に対する迎撃準備についても、地道に「桜大和」のドック内で静かに進めてまいりました。将来の国思う学校でも教材の一つにしてまいるつもりです。今後のブログをご期待ください。みなさまの応援をお願いします。

---------- 


日本は毅然とあれ!          

201112043             
敷島の路傍にて(筆者)
----------

人気ブログランキング 

↓あらぬ虚構から護ろう、先祖代々の日本!
20100310008 





スポンサーサイト



| HOME | Next Page »

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。