2011/10/05(水) 23:59:02 [国思う勉強会/国守る勉強会]

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平成23年3月26日の国思う講座より 
「武士は食わねど高楊枝」の謂れ
 
 「武士は食わねど高楊枝」との謂(いわ)れを、みなさまはご存知のことかと思います。武士たる者は、たとえ、生活に窮(きゅう)し食事を満足に出来ない状況にあったとしても、満腹を装(よそ)って楊枝を咥(くわ)えてみせる。ふと、こうした光景が浮かぶほど、この喩(たと)えは、一般に「やせ我慢」を表すかの意味に用いられております。

 しかし、日本人本来の誇れる品性に照らし、幾多の先人の業績にその意味をより深く拝考すれば、たとえ、いかに生活に窮することがあろうとも不義、不行には手を染めず、との心深い美徳を表す喩えであることが分かります。大和の国、敷島の元来の品位の高さを武士の気位(きぐらい)に約した喩えと謂えます。最近目立って来た、どこかの「恥」を知らない国の民や、それらに心準ずる一部の政財界の人々のメンタリティとは、品位の点で格段の差が有ることは一目瞭然です。
 
 そもそも、物事、事象を構造的にとらえ、諸事を関連付けて認識することを特長とする日本人にとっては、たとえば、空腹時に目の前に饅頭を出されてもそれに手をつけずに、それが毒饅頭であった場合も含めて、その先に有り得るリスクを先ず考える。その原点がこの「高楊枝」のスタンスとも謂えます。ごく身近に、たとえば、国から「子ども手当」が出ると云われても、さぞ、有り難いことかも知れないが、日本人の美徳に照らしてみて、その「代金」は、果たして、先々で誰が支払うことになるのかと。そこで構造的にその先を読み取る。先読みする。また、それが可能なのが、どうか。理性と品位をもって処する。それが日本人本来の美徳に通ずる物事の峻別の在り方ではないかと考えます。

 いわば、たとえ乞食となっても恥に身を染めず、との謂れでもあろかと存じます。物事の筋道を違えたおかしな政党やカルトの世話にはならず、わが身には日本人の美徳に照らす誇りあり、と堂々と生きる。おそらく、この信条は、本日お集まりの多くの国思うみなさまが、ごく当たり前に共有しておられる信条と拝察しております。

 それが、英邁に事象を見抜く日本人の特質を発揮できる素地と思います。以上、お話の中で少々余談になりましたが、地道ながら、みなさまとともに、この心を以って日々新たに進んでまいりたく思います。次世代のためにも、国害をオブラートで包むかのさまざまな偽装に翻弄されることなく、廃国政党やカルトがおりなす精神侵略、恥知らずの毀日国の主権侵害など、あらゆる国害の偽装に騙(だま)されず、また、間違っても世話になることなく、先祖代々の日本人の美徳を誇りとしてこれらを退治し、毅然とした日本を築いてまいりましょう。

(以上、平成23年3月26日 国思う勉強会のお話より) 当日の資料【PDF
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日本は毅然とあれ!  

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本年の桜花にて候(筆者) 
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