2011/06/14(火) 23:26:57 [メディア報道の闇]

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ストーカーの病理を見抜け

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「顔殴られた」「つきまとわれた」…被害者が周囲に相談 千葉女子大生死体遺棄 
  千葉県木更津市の林道で市川市の千葉商科大2年、菊池果奈さん(19)が遺体で見つかった事件で、菊池さんが男性からストーカー被害を受けたとして周囲に相談していたことが12日、関係者の話で分かった。産経新聞Web)6月13日付記事より参照のため抜粋引用/写真は産経新聞同記事より資料として参照のため抜粋引用
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ストーカー量産の背景

 陰惨な事件だが、病理追求のため、今後の参考のためクリップさせていただきたい。表題は、ストーカーによる殺人事件・死体遺棄事件に関して報じる記事である。事実とすれば、ストーカーによる被害では最悪の結末に違いない。

 残念ながら、一般に、平然と「個」という他人に対する迷惑を考えない行動が横行し、また、暴力的反発や報復を恐れてのことか、それらを迷惑を注意し、叱る年長者も少なくなって来たかに思う。特に、人を育てるべき最たる場である「学校」でその風潮が色濃くなって来てはいまいか。

 併せて、テレビをはじめとする多くのメディアの退廃も日常的な背景になっていまいか。言葉は悪いが、来る日も、また来る日も精神汚染を受けていれば、本来、まともな人間でも「おかしくなる」かのように造られている。

 せっかく経験有するべき年代層にあり、世の綱紀の一端を個々に担い、時には青少年層に対して物事を教え示すべき「大人の層」に事無かれ傾向が深まり、思考停止が進んでいるかに映ってならない。何かといえば事の善悪の判断が難しく、物事の優先順位をも判別し難い。いわば、メディアを籠絡する広告、CM主にとっては思う壺の構造が出来上がっているかに洞察し得てならない。

 これらは、たとえば、現下の、民主党政権が出来上がった背景でもあり、且つ、同政権を下野させ得ずにいる要因にもなっており、先ずは、こうした大きな背景が世にストーカーを量産する背景的要因の一端となっているかに考察している。
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ストーカーに目立つ病理

 上記を背景的要因とするかのように、腐土にわくカビや虫のようにストーカーが次々と生まれる。そのストーカー自体は問うべき精神病理がさらに集約された存在に違いない。国思う啓蒙活動の上で体感して来たことは、ストーカーはカルト教団の信者の中に実に多い。いうなれば、広告料の前にひれ伏すメディアが、たとえその「主」が社会的に問題があるカルト教団であっても、単なる“平和団体”程度にしか報じない。たとえば、それは賭博に過ぎないパチンコに対するスタンスと同様である。ゆえに、破綻者やそれらによる被害者が後を絶たないのであり、同様に、カルト信者のストーカーも野放しになるわけだ。

 加害者がカルト信者であったとしても、たまに新調誌面などが補完的に報じるのみであり、新聞、テレビがその実態を報じるケースはほとんど無い現実も、上述の証左と謂えよう。たとえば、つい先日も、池田小学校の児童殺傷事件から10年との報道は盛んになされてはいたが、犯人の正体を報じたメディアがあっただろうか。問うべき現実がここにもある。

 多くのみなさまがご存知の通り、カルト教団は洗脳を専(もっぱら)らとしている。洗脳とは「事実」ではない、また、事実とはかけ離れた事柄を繰り返し植え付ける手法である。それが集団的になれば集団洗脳と謂う。しかし、人間とは、真実を知りたい。理性を以って客観的に物事を測りたい、との本能を有している。そのため、この病理の初期症状として、事実ではないことを植え付けられるにつれ、内面のどこかで理性の反発が生じ、それが肥大化する仕組みになっている。いわば、言い知れぬストレスが鬱積(うっせき)するようだ。

 この段階なら未だ軽症と謂えるのかもしれないが、その段階を超えてさらに洗脳が進むにつれ、いよいよ内面が崩壊し始める。いわば、その人にとって植え付けられて来た病理が「まとも」であり、病理で身の周り、ひいては世を測るようになる。たとえば、教祖による、死者の“蘇生”指示のために長期間遺体を放置したライフスペース事件もその典型と謂えよう。同様のカルトの病理に苛(さいな)まれた潜在的予備群が存在している。いわば、ストーカーの事例もまた、このカテゴリーに存在するケースが少なくないはずだ。
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「亜」も少なくない

 もう一つは、先稿で指摘させていただいたが、教祖もまた信者も、その多くが「元」は日本人ではないケースも少なくない。通名や帰化後の名前でしか報じないケースが実に多いのではないか。現在では社会問題となっている「DV」や幼児虐待の事例のかなりのケースに同様の傾向が観られるが、しかし、報道出来えず、とのタブーが「事実」の前に立ちふさがっている、との指摘を故・内藤國夫氏(月刊誌「諸君」に創価学会問題追求の記事を長年連載)から伺ったことがあった。

 カルト信者で、且つ日本人ではない、とあればその毒性はさらに高まる。多くのメディアが通名で報道した朝鮮人牧師による多数の幼女強姦事件もその一例と謂える。これらの病理は、不特定多数に向けられている。たとえ、今日のニュースでは他人事であっても、明日は、わが身かもしれず、家族におよぶ可能性もまったくゼロとは謂えない。そのくらいの危機感を以って、免疫性を高める。たとえば、これらの病理に気づけば相手にしない。「とっかかり」を許さない。カルトには騙されない、入らない。こうした対策が必要ではないかと考える。

 同時に、現実にストーカー被害に遭われている場合には、身近なご家族や信頼できるご友人に忌憚なく相談する。実情を具体的に話す。さらに、相談し得るカルトバスターがいれば良いのだが、もし、お身近に居れば遠慮なく相談してみられるのも一つかと思う。性犯罪と同様、ストーカー犯罪の場合も、犯人の「DNA」や帰化歴があればそれを公示すべきであり、統計をもとに社会的な予防策を講じるべき筋道にあろうかと私は考える。
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【筆者記】

 上記のストーカーとはやや趣が異なるが、たとえば、筆者が申し述べて来たカルト対策については、こういう方法もありますよ、との問いかけ、提案であって強要の類ではない。

 だが、カルト信者の友人がいる。カルトが間違っていることを言えば、人間関係が壊れる。だから言わない、言いたくない、博士にそう講義されても困る、とのご意見を国思う勉強会でいただいたことがあった。どうぞご自由に。

 ただし、あえて指摘させていただければ、事実の指摘をすれば壊れるような「人間関係」は、(=イコール)不実(虚構)の「人間関係」に過ぎない。ということは、不実の「人間関係」が幾重に広がろうとも、本当の人間関係とは謂えないが、如何だろうか。また、事実を指摘しても、多少何があろうとも「壊れない」人間関係こそ、本当の「人間関係」と謂えるのではないか。毅然たる日本の基礎になっていくはずだ。 (博士の独り言 6月13日付記事より)
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 ブログの日頃の論旨につき、ごく当たり前の筋道に照らして「おかしい」、「変だ」と洞察し、意見書のメモとしてみなさまに報告させていただき、その病理を問う。これが「博士の独り言」のスタンスであり、今後も不変です。

 事実の指摘は決して悪口には該当しません。病理に対する指摘は、それが事実であればことさらに「悪口」の類ではなく、むしろ、さらに事実を掘り下げるために不可欠な指摘です。事実を淡々と指摘すれば、「なるほど、そうか」と気づく人もまた意外に多い。ごく普通の日本人が、ごく当たり前の「言」を発して行く。事実を即した、その共有が広がるほどに、また日本は毅然と恢復する、その素地を取り戻していくに違いありません。

 事実の共有はすべての第一歩です。正論は事実から生まれ、良識の声は必ず力になる。良識による日本の民間防衛に取り組む国思う活動を応援くださり、辛抱強く支えてくださるみなさまに心より感謝します。
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日本は毅然とあれ!   

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路傍にて(筆者)
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